子供の頃の夢をブログに書いておくと、同じ夢を志す若い人が読んでくれるかなぁ? っと思って書いてみました。。。。まぁ、参考になるかは別として。。。
小学校6年の時に、F1ドライバーになりたいと強く思うようになりました。
正確な動機は定かではありませんが、1991年の日本GPから、TVでレースを見ていた記憶があります。
その頃は、アイルトン・セナや、中島 悟が活躍していたころで、メディアでも取り扱う量がそこそこ多かった様に記憶しています。興味をもって色々みていると、レーシング・カートというものがあるということを知りました。F1をTVで見ていると、後半のローカルCMがメインになる頃に、長野県内のカートショップのCMが流れ、
『まずはカートだ!』っと意気込みました。
本屋でカートの本を発見して、予習。
そして、親への交渉、、、、、熱くF1ドライバー、レーシングカートへの思いを熱弁しましたが、ことごとく撃沈。。。今思えば、とてもじゃないけど、当時、そんな家計の余裕はなかったかなと。。。。幾度か激しく親と言葉の衝突を繰り返した挙句、どうにも反対勢力が衰えず、TVでF1を見るだけに留まるようになりました。
小学校6年の時でした。
中学校時代は、F1を毎レースTVで見つつ、バスケ部活をがんばって過ごしました。
で、16歳の時に、1つの転機が訪れました。
長野高専に進学して、寮生活を送るようになったわけですが、なんとなんと、調べてみたら、自転車で30分ぐらいの距離に、F1でローカルCMを放映していたカートショップがあるではないですか?!
これは行かない手はないと、早速、カートショップに言って、話を聞いてみました。
これはやるしかないと、早速、3年ぶりに親への交渉。。。。なんと、今回はさっくり許可が下りました。
- 初期費用は出してくれるが、その後の維持費は全て自分でまかなう。
- ちゃんと勉強もする。
という条件付きでOKしてくれました。
一時期はあきらめていたカートだったわけですが、何かの巡り合わせといいますか、あれよあれよという間に、話が進みまして、初めてステアリングを握ったのが、高専1年の夏休み。1996年、8月のことだったと思います。伊那にある、ラリーキッズ伊那というサーキットでした。
維持費は自分で稼がないといけないので、必然的に休日はバイトをする様になります。よく働きました。焼き肉屋、ピザの配達、酒屋とか。
すると、今度は、池田町にカートのサーキットがオープンするって言うじゃないですか。山の中ではありますが、それまで伊那まで言っていたのに、今度は長野から約1.5h。実家からなんてもう20分という距離に、サーキットあづみのがオープン!! だいたい、レースの週末は、土曜日に練習して、日曜日レースだったので、土曜の夜は実家に帰ることができるようになってしまいました!
当時の活動状況としては、一番活動していた1999年の場合、春〜秋にかけて、GKT(ゴールデンカートトロフィ。今でいう『あづちゃれ』ですかね。)と言う、サーキットあづみので開催されるシリーズ戦に月に1回出場しつつ、それ以外に、月に1回、練習走行するか、しないかという具合でした。また、年に1回は、新東京サーキットとか、ツインリンクもてぎにも遠征したりもしました。
コースの使用料、レースごとの新品タイヤ、消耗品、などなど、1月に10万近く必要でした。
高専5年の2000年にも、少しだけレースに出場しましたが、多少の成績(通算2勝、1999年はシリーズ成績2位)を残しつつ、就職。
2001年から、仕事が忙しいこともあり、活動休止。カートの保管場所にも困り、フレームとかはサーキットあづみのに寄付しました。(この前行ったら、そのフレーム、レンタルカート用として活躍してました)
F1ドライバーを目指すにしては、全くもって甘い取り組み方だったと思いますが、あの頃、自分ができる範囲で、モータースポーツの世界を体験できたことは、良かったと思うし、メチャクチャ面白かったです。
もう、とっくにカートレースにガンガン出ている方にはあまり参考にならなかったかもしれませんが、カートやりたいけど、どうしようかなぁ〜と悩んでいる方には、何かの足しになってくれればと思います。
とりあえず、カートショップへ行って、話を聞いてみると良いかもです。