Day by day step

日々成長?の記録

2013/7/31からのあれこれ。 母、和子が脳幹出血で他界。

公開にあたり様々な思いが巡りますが、

母の死は、

紛れもなく僕の人生の中で大きな節目であり、

何年か経った後、

何かを見出すことができるだろうという思いも込めて掲載させて頂きたいと思います。

 

 

 

 

2013/7/31

 

(父や姉から聞いた話)

 

9:30頃

父と母が父の運転する車で姉宅へ訪問。

姉の息子を自宅で子守るために迎えに行った。

2人は姉の息子を連れて家に戻る。

 

9:50頃

実家に戻った母が姉とTELで会話。

 

10:00頃?

母と甥っ子が居間。

父が別室に居たという状況で、

母が甥っ子の名前を何回も呼ぶのでその声を聞いて異変を感じた父が居間へ。

父が母に

「どうした?!」

と聞くと、母は

「おかしい」

という言葉をろれつが回らない状態で発して意識をなくした。

そして「いびき」をかき出した。

父は救急車を呼び、その通話中、姉から別の電話に着信があったらしく、

父はその電話も受け、両手に固定電話の受話器と携帯電話を持った状態で、姉に救急車を呼んでいる声が聞こえる様にして救急車を呼んだ。

 

救急車到着後、母の意識不明状態が糖尿病由来か、脳由来かを判断する作業が行われた。

母は定期的な通院が必要な程度の糖尿病を患っていた。

救急隊が測定した検査数値を母が通っていた近所の開業医に問い合わせたところ「それは糖尿病に起因する症状ではない」という判断を受け、救急隊は「脳」由来の症状だと判断したそうだ。

ドクターヘリが手配され、母は実家から直接大町運動公園近くのヘリポートへ運ばれ、父が付き添ってヘリで信大病院へ向かった。

 

 

***

 

 

(ここから自分の体験)

 

台湾出張のためセントレアへ向かっていた。

 

10:31(履歴)

特急しなのに乗車して木曽福島駅停車中だった。

スマホで音楽を聞いていたところ、音楽が着信音に変わり「あれっ?」っと思っていたら姉からの電話だった。

第一声は

「真吾!!かあちゃん倒れたっ!!」

だった。

母が倒れヘリでこれから信大病院へ運ばれるという内容だった。

突然の情報にまだ状況がよく呑み込めず、少し考えてから、出張をこのまま行くことも、引き返すことも、どちらも選択できる様にと考え、

「とりあえず名古屋まで行って待機するからその後の状況次第で引き返す」

と答えて通話を終了した。

通話の終了間際「いや、やっぱりすぐに戻るべきかな」っと心をよぎったが、そうこうしている内に電車が動き出した。

 

10:37(履歴)

パート勤務中の嫁にLINEで一報を伝えた。

パート中なので読むのは後だろう。

 

よく呑み込めない状況とジワジワと湧き上がる危機感が交錯する中で動揺し始めた。

「落ち着こう、まずは次の停車駅で降りよう」と決めた。

 

10:39(履歴)

会社の後輩に一報と、

「とりあえず中津川で降りて状況確認の上、危なければ松本に戻ります」

と伝えた。

 

10:42(履歴)

同じ会社に勤める従兄弟に電話をかけるもつながらず。

 

あらためて考えた。

倒れてヘリで運ばれるということは、既にかなり深刻な症状だと判断されたのではなかろうか?

「可能性の幅」を考えると、良い方向に行くのであれば、倒れてから病院へ到着するまでの時間はそれほど長くないだろうから治療が有効に機能するだろう。

でも、もし悪い方向に行くのであれば命が危ないかもしれない。

そこまで考えた瞬間に引き返すことを決めた。

 

10:44(履歴)

引き返すと嫁に連絡。

 

10:45(履歴)

引き返すと後輩に連絡。

 

動揺は増していき、いつ中津川に着くかも分からないまま、荷物を持って車両の出入り口付近に立った。

僕は元々乗り物には弱く、揺れるしなので立っていたら数分で気持ち悪くなってきてまた席に戻った。

座っていれば大丈夫。

 

11:05(時刻表)

中津川駅下車。

 

11:06(履歴)

先ほど繋がらなかった従兄弟から着信。一報を伝える。

 

11:23(履歴)

課長に発信。出張を取り止めて病院へ行くことを伝える。

 

11:33(履歴)

父から着信。

僕:「かあちゃん、生きてる?!」

父:「生きてる。脳卒中の疑いでいま検査が行われている」

僕:「いま中津川駅にいて、これから信大病院へ向かう。出張は全てキャンセルした。」

という内容の会話をした。

時刻を調べると松本方面に戻る特急しなのは11:50発だった。

今日は長い1日になるかもしれないと考え、ホームの自動販売機でオロナミンCを1本買って飲んだ。

 

11:46(履歴)

パートが終わった嫁から着信。

松本駅13:02に到着するのでそこで合流することにした。

父、姉、嫁、従兄弟にSMSで行動予定を伝えた。

 

11:50(時刻表)

中津川駅から松本方面に向かう特急しなのに乗車。

電車の中では待つしかないので音楽を聴きながら目を閉じて考える。

 

しばらくして一瞬、感動した時に全身がゾクッとする様な感じにゾクッとする。

「あっ、今もしかしてかーちゃん来たかも???」と思う。

 

13:02(時刻表)

松本駅下車。

嫁と合流し、嫁の車で信大病院へ向かう。

車中で嫁と話す。

母の名は和子と言い、嫁との間では「和子ママ」と呼んでいた。

僕は

「もしこれでダメな様なことがあれば、それは和子ママの運命なのかもしれない。神様が和子ママはこの世での務めを十分に果たしたと認めてくれたのかもしれない」

みたいなことを話した。

嫁は

「大丈夫だよ」

と励ましてくれた。

 

13:30頃

信大病院到着。

緊急搬送口の方から入ると姉が居た。

 

「ダメだって、ダメだって。手術できないって。」

 

と言いながら僕の腕を軽く叩いた。

病院に到着するまでに巡っていた様々な「可能性の想定」がここで一気に悪い方向へ振れた。

その後、父に会い、一緒に母の居る集中治療室へ行った。

母は静かに寝息を立てていた。

ベッド横のモニターが心拍数や血圧を表示していた。

 

14:00頃

先生からお話を聞いた。

その時居たのは父、姉、僕、おばさん(母の姉)2人だった気がする。

嫁は待合室で姉の子供の面倒を見ていたと思う。

CT検査の写真を見せてもらいながら説明を聞く。

XY平面方向は脳のほぼ中心、Z方向は目の位置から上?下?のどちらかは判らなかったけど、とにかく目の位置から少し動かした部分の写真が表示され、ここが白くもやーっとなっていた。

白く見える部分が出血していると言われた。

本当にど真ん中だった。

そして、この部分の出血に対して手術や効果的な治療はできず、意識が戻ることはないだろうと言われた。

続けて、

「本人が以前、臓器提供の意志を表明していたことはあったか?」

と質問された。

「その質問、ここで来るの?!母はそういう状態にあるのか、、、」

っと心の中で衝撃を受けた。。

「意思表明はなかった」

と父が答えた。

(後から考えると、臓器提供をする方やそのご家族というのは、とてもとても大きな決断をされているのだと思った。)

 

今後、出血が広がると、呼吸、心拍、血圧などが悪化する可能性が高いがそうなった場合に治療を行うか?という趣旨の質問がされた。

「これもヘビーな質問!!」っと心の中で呟きながら父の方を見た。

「できる限りの治療をお願いしたい」父が答えた。

この時点で母はまだ自発呼吸ができていたが人工呼吸器も付けて頂くことになった。

母の昏睡状態が長く続く可能性についても話があり、特に母の姉(おばさん)2人は介護に対して高い意欲を示し、いくつか質問をしていた。

 

説明終了後「とにかくお昼を食べよう」ということで売店でパンなどを購入。

Tully's裏の外のウッドデッキで食べた。

 

14:44(履歴)

同じ会社に勤める従兄弟に発信。

「手術ができずかなり厳しい状況」と伝える。

 

待合室へ行き、ウトウトしながらただじっと待った。

 

16:00過ぎ

父と僕が呼ばれて母の病室へ行った。

行った時には母の容体は安定していたが、少し前に心拍が乱れて心臓マッサージを行ったと説明を受けた。

今夜を乗り切るかも危うい状況が予想されるので、家族は病院に泊まり、集まれそうな親戚は呼んだ方が良いと言われた。

父と僕はずっと病室に残り、順次、駆けつけてきた親族が時々母の様子を見に来た。

母とモニターを交互に見ながらじっと座っていた。

 

17:00過ぎ(?)

突然母の心拍が乱れ始め、心拍数は瞬間的に211とか示していた。

すぐに数名のスタッフの方が駆けつけ、心臓マッサージをしてくれ、ほどなくして安定した状態に戻った。

この時、次の発作に備えて電気ショックをすぐかけられる様にシートが母の胸に貼られた。

「しばらくしたらまた同じことが起きるのだろう、、、」

と思いつつ、

「ここで気持ちで諦めてしまってはダメなのではないか?」

とも思いつつ、病室で母を見守り続けた。

 

17:50頃?

再び母の心拍が乱れた。これで3回目。

スタッフの方数名が駆けつけ、電気ショックをかけるので病室の外へ出るように指示される。

部屋の外にもモニターがありベッド横のモニターと同じ情報を見ることができた。

先ほどと違ってモニターが示す母の心拍は元に戻らない。

いよいよ来てしまったか、、

その後、入室が許可され、スタッフの方が交代しながら心臓マッサージを続けてくれた。

待合室に居たはずの親戚も僕が気づいた時には病室に誘導されていた。

モニターが表示する線はまっすぐ。

心臓マッサージで押された時だけ少し変わるくらいだった。

先生と父が少し言葉を交わし、父も了解して心臓マッサージが中止された。

死亡確認がされ告げられた時刻は18:03だった。

 

 

病室にいた一同、母を囲んでその死を悲しんだ。

 

 

待合室に戻り、そこに残っていた親戚にも母の死を伝えた。

誰もが驚き、悲しんだ。

 

しばらくして看護師の方から次にやるべきことが説明された。

まず母を連れて帰る時に着させる浴衣を廊下の自動販売機で買うこと。

これは誰が買ってくれたか分からなかったが親戚の誰かが買ってくれた。

次に母を家に連れて帰る車を呼ぶこと。

はじめは母の姉が自分たちの車で連れて帰りたいと申し出たが、病院側から体力的に厳しく、怪我や事故があってもいけないので、専門の葬儀会社に依頼した方が良いと言われそうすることにした。

葬儀会社のリストを見せてもらい僕が電話をすることにしたが、完全に気が動転していて、リストに書いてある電話番号と、自分がスマホに打ち込んだ電話番号があっているのかどうかまったく照合できない。

看護師の方に確認して頂いてなんとか迎えを手配した。

18:26(履歴)に発信。

1回目の電話で間違えて実家の住所ではなく自分の家の住所を伝えたことに気づき、あとでもう1回電話して住所を訂正した。

 

待合室周辺は親戚一同が騒然としながら誰が先に帰って家を片付けるのか?など話し合っていた。

少し落ち着いた後、病室へ戻り母の肩をさすり、数分ほど傍に座った。

 

19:50頃

母の迎えが到着し父が付き添って実家に向けて出発。

病院に残っていた親戚一同で見送った。

あばさんの一人が病院のスタッフの方一人一人に深々と頭を下げていた。

親戚はそれぞれ病院を後にし、僕と嫁が最後まで病院に残った。

 

20:30頃

嫁と一緒に駐車場の端のブロックに座り込み、ボーッと病院の屋上あたりを眺めながらこの数時間の内に起きた出来事を振り返った。

というか、振り返るにも実感が沸かないことだらけで、ただ単純にボーッとしていただけだったかもしれない。

おにぎりを1つ食べて実家に向けて出発した。

 

21:30頃

実家に到着。

母は座敷に寝かされていた。

父の家系は神式であり正式には線香を焚かないのだが家に着いた時には線香も焚かれていた。

親戚が翌日から訪れるであろう訪問客を迎える準備を進めてくれていた。

ポット、お茶、湯呑み、お茶菓子、、、etc..

経験者が先導して慌ただしく準備が進められある程度できたところで帰って行った。

父、僕、嫁が実家に残った。

布団を引っ張り出して敷く気力もなく、

父は長座布団と枕、僕と嫁はそれぞれ長座布団を折り曲げて作った簡易的な枕だけで絨毯の上で横になった。

「線香を絶やさない」という話を聞いていたので、スマホのタイマーを使って僕が20分おきに朝までずっと線香を供給し続けた。

父は何回も寝返りを打っていた。

眠れなかったらしい。

 

 

2013/8/1

 

5:00過ぎ頃から活動を始める。

僕は掃除機をかけ、

嫁はおにぎり、栄養ゼリー、お茶菓子など買い出しにコンビニへ出かけた。

 

6:00を過ぎた頃からご近所さんが続々と線香をあげに来てくれた。

皆、突然の訃報に驚いていたが、こちらもまだ実感がよく沸かないまま迎えていた。

 

7:50(ノートメモ)

葬儀会社の担当者が来宅し打ち合わせが始まった。

僕は出張用の荷物に入っていた仕事で使っているノートにメモを取った。

母の氏名、死亡時刻、年齢が確認された後、葬儀の日程が検討された。

 

8/2は葬儀をお願いする宮司様のスケジュールに空きがなく、

8/3は友引なのでスキップされ、

8/4が葬儀の日に決定された。

 

逆算する形で、通夜、出棺、などの予定が決定された。

続いて、料理、敷物、生花、供物などの説明がされ、

その後、市役所への手続きを代行して頂けるということで、死亡届を言われるがままに僕が1項目ずつ書いた。

書類の右半分は既に信大病院で記入されていて死因の欄に「脳幹出血」と書かれていた。

 

12:00

朝の打ち合わせの時にお願いした「湯灌」を行ってくれる担当者が来宅。

母を綺麗にして頂いた。

 

午後の様子はあまり良く覚えていないが、たくさんの方が線香をあげに来てくれた。

 

父を中心に料理、敷物の相談がされ、

生花、供物は父、母の兄弟中心に話を進めてくれていた。

神式の葬儀では母の生前の経歴のを読み上げるということでその資料作りを僕が担当した。

A3の紙1枚に、例文に沿って生年月日、出身地、出身校、勤務先、性格、などあらゆる情報を記載した。

完成して提出したのは8/3の通夜直前だったが、、、

(葬儀の時に思ったが、葬儀参列者が何かしら関わった場面が登場するので、これはなかなか良いものだと思った。)

 

2階の部屋には1階にあったあらゆる荷物が運び込まれて足の踏み場もない様な状態だったが、布団1枚分のスペースだけ作り出して布団を敷き、休みたい人が隙をついて交代で横になった。

主に父、姉、僕の3人が活用した。

 

父は携帯でポチポチと文字を打ちながら、必要となるいくつかのあいさつ文を考え始めていた。

 

前夜の状況と打って変わって、葬儀に向けたあらゆる準備が進められた。

まさに悲しんでいる暇などない。

 

7/31の晩は母に一番近い場所を僕が陣取ってしまったが8/1の晩は父に譲った。

 

 

2013/8/2

 

9:36(ノートメモ)

葬儀会社と打ち合わせ。

8/1に説明を受けた発注が必要な案件の注文数を概算で決めていく。

担当の方はノートPCと小さいプリンタ持参で、決めた内容の注文書をその場で印刷し、PCに接続した携帯電話経由で注文情報を送っていた。

我が家の葬儀は日程的に若干余裕ができたが、亡くなった直後から通夜が始まるようなストレートの日程の場合、これくらいのスピード感が必要なのだろう。

 

知らせを聞いた方々が続々と来宅。

父は亡くなった経緯をお客様に説明し続けた。

お昼には祖母(父の母)も来宅、ご飯を一緒に食べる。

 

姉が

「母がよく名前を口にし、時々手紙をやり取りしていた母の友人が朝から気になって仕方ない」

と言い始め、その手紙を探し出し、電話番号を教えてくれる104サービスを利用して、手紙に書かれていた住所から電話番号を探し当て、母の友人に訃報を知らせた。

とても驚いてた。

遠方にお住まいだったがこの方はご夫妻で葬儀に来てくれた。

 

葬儀で着るスーツの準備を始めたが、父の分、僕の分、共にYシャツ、靴下、ハンカチなど、あれもこれも見当たらず、嫁とビッグへ買い出しに行った。

夜は布団を引っ張り出してきて8/1の仕様からグレードアップ。

父、僕、嫁、姉家族も含めて、皆でマッチ棒状態で母と一緒に座敷で寝た。

 

葬儀の日程が少し延びて1日でも長く母と過ごせたことはささやかな救いだった。

 

 

2013/8/3

 

新聞のおくやみ欄に母の訃報が載り、大町市の有線放送でも流された。

連絡が行き届かないので、これらの情報をきっかけに来宅して頂いた知人がいらっしゃった。

一方で、このおくやみ欄情報を利用して営業活動を行っている会社もあり、線香をあげるだけならまだしも、営業的な話をされるだけで疲れと怒りがこみ上げた。

唯一、日を改めつつトータル2回も来たお仏壇の○○屋には「もう来ないでください」と伝えた。

群馬県の漬物会社は「漬物を送らせて欲しい。その後、購入しないとしても感想を聞かせて欲しい」と電話がかかってきたがお断りした。

ただでさえ異様な精神状態の中でお客様を迎え、葬儀の準備を進めていると言うのに、これらの営業活動は本当に迷惑だった。

個人的に許容可能なのは書面で1回だけ送ってくる程度。文面も大事だけど。

ギフトショップあだちはOKだった。

ただ気の利いた書面を出してくるようなお店は、その様な書面を頂くまでもなくこちらが必要としていて、花瓶やら、何やら、こちらから出向いて購入していた。

 

15:00

家から通夜を行う葬儀場へ出棺。

(通夜を葬儀場で行ったので、正式な出棺は8/4の朝、葬儀場から火葬場へ出るところ)

後日、この時に実家の庭で「黒くて綺麗な蝶々を見た」という人がいたけど僕は気づかなかった。

 

17:00

葬儀場で通夜

なんとも言えない時間だった。

 

父や一部の親戚はここに泊まり、僕と嫁は実家で寝た。

 

 

2013/8/4

 

9:30

葬儀場から火葬場へ向けて出棺。

霊柩車の助手席には父が、2列目には僕が乗り、すぐ隣には棺に入った母が居た。

板1枚挟んですぐ向こうにいる母を感じながら、わずか10分足らずのドライブを静かに堪能した。

 

10:00

火葬

粛々と儀式が進んで行き、母を見送り、ひたすら待った。

約1.5時間後には母は骨だけになっていた。

 

12:00

葬儀場に戻った。

 

13:00

葬儀が行われ、

 

19:30

NHKBS日本のうた」という番組を見た。

ちょうど1か月前の7/4に大町市で収録された会で、父と母がハガキ抽選で当選して観客として見に行っていた。

「とうちゃんとかーちゃん映るはず」

っと皆で夕飯を食べながら、時々切り替わる客席の映像に集中した。

案の定、ところどころで母の姿が映り、その度に「ほらほらほら!あーっ!いま映った!」と歓声をあげた。

母が亡くなって以来、皆の表情が明るくなったのはこの時が初めてだったと思う。

葬式が終わった日の晩に生前の母をTVの中で見るなんて、、、ミラクルだと思った。

TVの中で母は父の方に顔を向け何か話しかけていた。

1回、父のアップが映り、その隣にいた母が見切れていたところがあり、収録されていた映像にはこのアップ時の母も残っていたのではないかと思って、ダメ元でNHKのコールセンターに映像を提供してもらえないかと頼んでみたが、コール担当の方が「一旦、上司に確認します」とした後、「未放送の映像は一切提供できません」と言われ撃沈した。

まぁ、しかたないか。録画はしてある。

少々小さいが、姪っ子が父と母が並んでいる録画映像を探し出した。

お手柄。

 

7/31から実家に泊まり続け、出張用に持っていた着替えストックを8/4に全て使い切った。

このために用意されていた着替えとしか思えなかった。

いつもなら海外出張は出発の1~2週間前に計画するけど、今回の出張は急用で7/29に決定された出張だった。

 

 

8/5からは、実家の片付けをしたり、自分の家に戻ったりを繰り返しながら、実家に泊まり続けた。

 

 

8/7

会社を休みつつメールチェックを開始。

 

 

8/8

14:00出社

 

 

8/9

14:00出社。

 

お盆休み中も、実家の片付けを細々と続けた。

 

 

8/20に書いたメモ

「少しずつ日常に戻ってきたが7/31を少しずつリピートすることが時折ある。一方で、日常に戻ってくることで忘れそうなこともありそうで、ノートに取り始めた」

 

 

8/21メモ

お盆休み中もできるだけ休んでいたけど、疲れのピーク到来。グッタリ。

 

 

8/31-9/1

以前から予定されていたバスケ部合宿参加。

久しぶりに体を動かした。

 

 

9/5

業務も通常状態にほぼ戻り、次々と新しい案件が舞い込む。

テキスト文書で7/31からの出来事を書き起こそうと思い立つ。

 

実家は通勤経路途中なので、朝晩、実家に立ち寄っては片づけを細々と続けている。

実家のあらゆるものを綺麗に、整理整頓することが、父の今後の生活の活力を生み出すような気がしている。

 

一瞬、フッと落ち着くお線香の香りも時々する。

全く線香を焚いていない自分の家でも時々する。

これは母なんだろうと思ってる。

 

 

 

実はここまでの話の中で、他にもエピソードはあるのですがまた思い立った時に書こうと思います。

 

11/1現在、僕は元気を取り戻してバリバリ働いております。

 

父はまだもう一歩というところもありますが、ご近所さんはじめたくさんの方に気遣って頂き、日々を過ごしております。感謝。

 

 

2017.2.4追記

思い立ったので追加のエピソードを書いておきたいと思います。

2013/7/31AMに母が倒れて信大病院へヘリコプターで運ばれて検査を受けていた頃、

私は名古屋方面へ向かっていた特急しなのを中津川駅で下車して、反対方向の松本方面行を待っていた訳ですが、

ちょうどその頃、親戚が名古屋方面から松本方面へ向かって、車で中央道を走行中でした。

当然、まだ母が倒れた情報は知らなかったのですが、無性に途中で高速道路を降りて、ご自身が知っているお店へ行かなければいけない気がしたそうで、中津川ICでおりてそのお店へ行き、さるぼぼを購入したそうです。

私たち夫婦は、2007年に結婚して以来、ずっと子供を授かることができていませんでした。

7/31晩、母の訃報を知り、購入したさるぼぼを私たちに渡さなければいけないと思われたそうで、8/4の葬儀終了後の会食の場で妻に渡してくれました。

これだけでもびっくり体験なのですが、(母が死の間際にさるぼぼを買ってくれた。と思いました)

 

母の他界から4か月後の2013.11月に妻がまさかの妊娠発覚。

その付近の数年間、不妊治療で通院していましたが、あらゆる検査結果が良くないものばかりで、もう子供を授かることは到底あり得ないと思えていた状況にも関わらず。です。3度目(だったと思います)の人工授精が成功しました。

 

12月には切迫流産の危機を迎えましたがそれもどうにか乗り越え、2014.7に無事出産。

 

今では2歳6か月になっています。

 

子供は母が好きだったドーナツや化粧品のテレビショッピングにとても興味を示すことがあり、親族の中では『母の生まれ変わり』ということになっていますし、実際、私もそう思います。

 

出来すぎな話なのですが、現実としてこういうことが起こっているのもまた事実です。。。